2024年10月21日発刊の「橋梁新聞」に、
当社の吉田技術顧問が語る「西瀬戸自動車道開通25周年記念」の記事
第3回が掲載されました。今回が最終回となります。
本四高速OBとして当時の思い出を語っています。ぜひご覧ください。


橋梁新聞 2024年10月21日版

西瀬戸自動車道開通25周年記念
第3ルートはこうして造られた⑤
~本四高速OB 吉田好孝氏の話から~

本州四国連絡高速道路西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道=尾道・今治ルート)開通25周年を記念し、本四高速OBが当時の思い出を語る特集企画。第5回目の今号は、大三島橋、多々羅大橋の調査を経験後、児島・坂出ルート、明石海峡大橋の工事および技術的な調査、尾道・今治ルートの工事・管理を担当した吉田好孝氏に、前号に続いて大三島橋の設計時から関わった「橋梁計画」「架設計画」などをテーマに回顧、論述していただく。(担当:片山宏美)

⑵橋梁計画

大三島橋架橋地点両岸の汀線付近の比較的浅い個所に良質な岩盤があり、鼻栗瀬戸と呼ばれた海峡部の幅は300mほどで、アーチ橋を計画する場所としては良い条件であった。ただし、両岸ともに道路面が基礎位置よりも高かったため、当初は中路型の鋼ソリッドリブ固定アーチ橋として計画されていた。その後、側タイ付きアーチ橋という斬新な構造の提案がされ、種々の検討が行われた。

一般にアーチ構造はスパンの1/4点付近で面内変形が最大になり、その挙動は全体座屈強度に大きく影響する。この部分の面内変形を抑えるとアーチ構造全体の強度は向上するはずである。

大三島橋は中路アーチ構造であるために、桁位置に配置された側タイをアーチリブと剛結させて、アーチ構造の弱点をカバーすることができた。ただし、側タイに作用する大きな引張力と圧縮力に対して側タイの端部をしっかりと固定する必要があった。この問題に対して、桁を受けるRC橋台をボックス型にして側タイを定着させることとした。定着構造には当時最大の定着力に耐えるとされたSEEE構造を用いた。地震時には側タイの一方が引張軸力の時に他方が圧縮軸力となる偶力が作用するケースもあるため、定着構造全体が側タイからのねじれ力に対して抵抗できるようにRCボックスとして設計した。

吊材は、供用中の交換が困難であるとの前提のもとに両端にソケットを設けたΦ5.2mmの亜鉛メッキ鋼線から構成される平行線ケーブルとし、防錆テープを巻いた上に、アルミ製のカバーを設置した。供用10年を経た頃に、内部を調査したところ、水分の浸入も見られず、内部の鋼線は健全であった。

側タイ付きアーチ橋ではアーチ基部をヒンジ構造としているので基部の曲げモーメントがゼロとなり、アーチ基部の曲げモーメントが大きい固定アーチ橋と比べて、鋼重を大幅に軽減できた。またアーチリブ中間部に生じる大きな水平変位を止めることができたため、終局耐荷力を高められ、さらに側タイによりアーチリブの中間部を固定した形は、アーチ構造の見かけのスパンを短くしたこととほぼ等価となり、長径間アーチ橋に適した構造といえる。


⑶架設計画

鼻栗瀬戸は水深約35mと比較的深く、潮が速く、通行船舶は1日約300隻と多い海域であったが、ある企業から大型フローティングクレーン船を用いたアーチリブの大ブロック一括架設の提案があった。

この工法は、現地での施工期間が短くて済み、工事の安全にもつながり、アーチ構造のほとんどを工場で製作できるため、橋梁全体の製作精度が向上するというメリットがあった。

しかし、当時は橋梁の大ブロック架設は一般的ではなく、本四公団には大ブロック架設の経験者もいなかった。建設省土木研究所から本四公団本社設計第1部長を経て、初代第三建設局長を務めておられた多田安夫氏が主導されて大三島橋の施工法の説明会がもたれた時、提案企業側は、”絶対に大丈夫です”と言い切って何とか局長の同意を得ようとした。

多田局長は穏やかであるが、”これまでの架設事故を見ると、いつも大丈夫と言いながら事故を起こしている”と言って首を縦には振らなかった。頭から反対しているわけでもなく、もう少しよく考えたいといった雰囲気であった。

結局、局長は大プロック架設には同意せず、従来工法であるケーブルクレーンによる斜吊り工法により両岸からアーチブロックを伸ばしていく工法を採用したのである。

その後、大ブロック一括架設の研究を進めた本四公団は、瀬戸大橋でこの工法を全面的に採用し、工期短縮、安全施工、品質向上に大いに役立てた。大三島橋の架設計画時点ではまだ信頼性や経験において十分とは言えなかったのである。

しかしながら、私にとって当時の橋梁建設計画における幾つかの重要な決定の場面に居合わせることができ、多田局長など識者の思考過程、安全に対する考察などを直に学ぶことができたのは幸いであった。当時20〜30代の若いエンジニアたちを同席させ、フランクに技術的な議論を戦わせていた多田局長の率直でおおらかな姿勢に改めて敬意を表したいと思うのである。

⑷入札直前の事業凍結

1973年に大三島橋は工事実施計画の認可を受け、入札・契約の準備が進められていた。まさに執行の直前になって、オイルショックにより本四事業を凍結し、入札を延期するという指示が現地に届いたが、突然の電話で担当者レベルの指示であったため、現場では何かの間違いだろうと思い、入札を執行した。

その後、そのまま入札延期の指示が正式文書で出されたが、既に入札を終えていたため、その入札は有効とみなされた。ただし、着工は一時停止され、晴れて着工指示が出るまで2年間ほど、夜明けを待たなければならなかったのである。