2024年9月21日発刊の「橋梁新聞」に、
当社の吉田技術顧問が語る「西瀬戸自動車道開通25周年記念」の記事が掲載されました。
本四高速OBとして当時の思い出を語っています。ぜひご覧ください。


橋梁新聞 2024年9月21日版

西瀬戸自動車道開通25周年記念
第3ルートはこうして造られた③
~本四高速OB 吉田好孝氏の話から~

本州四国連絡高速道路西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道=尾道・今治ルート)開通25周年を記念し、本四高速OBが当時の思い出を語る特集企画。第3回目の今号は、大三島橋、多々羅大橋の工事を経験後、児島・坂出ルート、明石海峡大橋の工事や尾道・今治ルートの管理を担当し、さらに東京湾横断道路への出向やマレーシアでの技術支援など幅広くわが国橋梁技術を支えた吉田好孝氏に聞く。(担当:片山宏美)

1972年3月に室蘭工業大学工学部土木工学科を卒業し、4月に希望していた本州四国連絡橋公団に採用されました。

配属先は海峡部上部構造を担当していた設計第1部設計第1課で、土木学会へ委託していた技術調査委員会の座屈分科会などの係となりました。桁の閉合間近であった関門橋の工事現場にも1カ月間、実習生として派遣され、吊橋の建設工事を経験しました。

74年1月に第三建設局建設部設計課勤務となり、大三島橋や多々羅大橋を担当しました。76年11月には今治工事事務所大三島支所で大三島と伯方島島内の橋梁および道路工事に携わり、様々な形式の橋梁の設計・施工を経験することができました。大三島にあるホロースラブ形式の瀬戸高架橋は、本四連絡道路の中で最初に完成した橋となったのです。大三島橋完成後は伯方・大島大橋の大島島内のアンカレイジ設計、主塔基礎締切りなどの準備工事を進めました。

81年10月に本社設計部設計第3課に異動となり、吊橋や斜張橋の耐震を担当しました。83年7月に建設が進んでいた第二建設局児島工事事務所勤務となり、下津井瀬戸大橋1Aトンネル式アンカレイジの工事などを担当し、85年2月に第二建設局の建設第1課長代理となり、児島・坂出ルートの海峡部全般を見ることができました。

86年7月に本社工務部技術管理課長代理となり、技術基準や積算基準の作成、安全対策などに従事し、88年7月に企画部企画課審議役となり、外国企業参入のコンタクトポイントを担いました。90年4月に第一建設局設計課長を命ぜられ、明石海峡大橋のアンカレイジ構造、色彩検討、桁内展望通路を設置した補剛桁の風洞試験、淡路島島内の橋梁検討などを行いました。93年、東京湾横断道路に出向し、長大な鋼連続箱桁橋と二つの人工島の構造検討に携わりましたが、鋼箱桁の架設直後に大振幅の渦励振が生じたため、本四公団への復帰が出向先の希望により棚上げとなり、橋梁の制振対策に必死の思いで専念したことを思い出します。

97年に本四公団に復帰し、本社工務部技術管理課長を経て98年に第三建設局向島管理事務所長を命ぜられ、尾道大橋、因島大橋、生口橋などを含めた管理全般を所掌しました。

2001年よりJICA(国際協力機構)の橋梁専門家としてマレーシア国に、PC斜張橋の技術をマレーシア政府の技術者に伝えることなどを目的に派遣され、公共事業省公共事業総局の橋梁部に2年間勤務しました。マハティール首相(当時)の指揮下にあるイスラム教徒が主体の組織で、彼らの考え方や習慣を知り、大変興味深い経験でした。

03年の帰国後、道路保全技術センターに出向、国道の橋梁における維持管理の実態を学びました。04年に海洋架橋・橋梁調査会の調査部長となり、05年に本四公団を退職しましたが、そのまま同調査会に研究部長として残り、10年に同調査会を退職し、大日本コンサルタント(現:大日本ダイヤコンサルタント)保全技術研究所に技術顧問、その後副所長として2年間勤務。12年に再び同調査会に調査役として復帰し、国交省委託の橋梁点検ロボット開発プロジェクトに5年間参画しました。

19年3月に橋梁調査会(前:海洋架橋・橋梁調査会)を退職し、同年11月に伸縮装置メーカーのクリテック工業に技術顧問として勤務し、現在に至っています。
(次号に続く)

※次号2024年10月1日版に続編を掲載予定です